こんにちは。
肌寒ささえ感じる今日この頃となりやした。
(1998年某月某日。香港)午前11時。
ンじいさんのモーニングコールで、今日も曼陀羅の一日が始まりやす。
「はい、曼陀羅です」
「ホーさんいる?」
「まだきてません」
「いつくるの?」
「たぶん午後になると思います」
ガチャ。午前11時5分。ふたたびベルが鳴ります。
「はい、曼陀羅」
「ホーさんは?」
「いない」
「いつくる?」
「午後」
ガチャ。その後、きっかり5分ごとに電話は鳴りつづけ…
午前11時45分。
「曼陀羅だけど?」
「ホーさん…「だからきてないって。「いつ…
ガチャ。「こらー! そっちから切るな!」
「うるさい。5分おきに電話してくんなー!」
ンじいさんは、76歳(98年当時推定)。
借金取りです。曼陀羅をめぐる数ある借金取りの中でも
最年長のベテランです。本当はたぶん不動産屋に雇われたただの集金係のじいさんだったのが、曼陀羅の店主、エドモンド・ホーによる長年の家賃の未払いのために、ついに借金取りになってしまったのだす。
テレフォン・ウォーミングアップで体をほぐしたあと、奴、エドモンド・ホーに会うのが待ちきれないのか、午後になる前に、そわそわと曼陀羅にやってきてしまうンじいさん。
でもンじいさんは
とても小さいので、店に入ってきてもすぐには気がつきません。
「ん? いま、こびとさんが…?」と気配を感じた次の瞬間には、レジ代わりにしている紫壇の大きな机の端っこに顔を乗っけてこちらをにらんでいるので、心臓が飛び出るほどたまげます。
「わっ!出た!妖怪!」
「…ホーさんは?」
「
……いない」
「ホーさん
わっ?」
「見れば分かるでしょ? 来てないよ」
「いつくるんだっ?」
「
知らない」
「
あ゛っ??」
「知らない」
「
あ゛っつ??」
「うるさ〜〜〜い!!! 知らないって言ってんだよっ!!!」
「目上の者に向かって、その口の利き方はなんだっつ!?」
「
ごめんなさい」
こうした何気ない会話が日課のように繰り返されます。
ンじいさんとのやりとりがひとしきりすんだ午後1時。店主のエドモンド・ホー、髪からシャワーの水を滴らせて登場です。
「ハーイ、taka。元気?」
「全然。ンさんから電話が30回あった。その間に3回店にきた。家賃払えとどなられた」
「
ふーん。 ……そうだtakaおまえ、腹減った?昼飯まだだろう? オレが買ってきてやるゼ」
そして近くの茶餐店でホット卵サンドと香港式ミルクティーをいそいそと2人分買ってくる奴。
エドモンド・ホー。
と、どこに潜んでいたのか、ンじいさんが音もなく近づいてきます。
大抵は、そゆことにだけにはやたら勘の働くエドモンド・ホーが、ンじいさんが現れる前に
「む、便意。じゃっ!!」あとはよろしくとばかりに新聞を持ってトイレにしけこむ方が早いのですが、
たまにンじいさんの動きがよく、エドモンド・ホーのそれを上回るときがあります。
そんなときは、ンじいさんがエドモンド・ホーに向かって「
真人間になれ」「もっと儲かる商売に鞍替えしたらどうだ」と説教をしたり、反対にエドモンド・ホーが「いいかげん引退して家で孫と遊んでいろ」とか「
ない袖はふれないんだからしつこくすんな」と、ンじいさんを説得しようとしたりする無為な会話が繰り広げられます。
わたくしの広東語わ、この時期、ンじいさんをはじめとした、借金取りたちとの会話によって、めきめき上達したと言えるでしょう(特に
脅し、
すかし、
言い逃れなどの分野において)。いま思えば、ただで日参してくれる家庭教師がたくさんいたようなもんですからに。
「
闇夜の道には気をつけろ」
「いつまでもお天道さまが拝めると思うなよ」
など、ほんとにこんなこと言う人がいるんだ! というような
フレッシュなフレーズを聞き覚えたのもこの頃です。
ンじいさんの前では、とうとう嘘の涙を流したことさえあるわたくしです。
「そんなにガミガミ言うなんてひどい。わたしだってずっとお給料もらってないのに。
え〜んえ〜ん」
としゃくりあげる(ふりをする)わたくしを、感情を失った目でにらみつけるンじいさん。
「ちぇ、泣き落としも通用しねえか。香港くんだりまできて、あたしいったいなにやってんだろ」
生まれてはじめて自分を心の底から客観視できた瞬間です。