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こんにちは。
お天道さまの光にも、秋の気配を感じる今日この頃となりやした。
前回の香港で、若いデザイナーくんたちと楽しくお話しをしていたら、なんとわたくしが香港滞在中に不法労働していた今は亡き書店が、香港のあるブログ周辺で話題沸騰だと聞いてびっくり!
ブログにも登場する、そこで働いていた「日本女子」とわ、目の前にいるわたくしのこと、という事実に、そのデザイナーくんたちもびっくり!
ああ、お天道さまはいつでも見ていらっしゃる。悪いことはすまい。毎日を謙虚に生きていこう、と、心から思ったことでした。
(前回までのあらすじ)
97年の中国返還後に香港に逆単身赴任? した「わたくし」は、当初の目的であった語学習得(広東語)も、学費のあまりの高さに10ヶ月で挫折。このまま日本に帰るのもなんだし、次はアメリカ大陸か? ともくろむうち、職の話が舞い込み、そのままだらだらと香港に棲みつくことになったのだす。。。
そりは「曼陀羅」という名の、書店&家具屋さん。店主のエドモンド・ホーは
「俺は日活・大映映画で育った男。ジャパニーズ・マインドの理解者さ。荒木経惟がオイラの永遠のアイドルだ!」
と豪語する日本びいき。香港が中国に返還されても「オイラはマカオ生まれのポルトガル人。だから関係ないもんにぃ」とうそぶく、どこから見てもまごうかたなきこってこての広東人です。
家具のデザイナーでもある、奴、エドモンド・ホーがデザインして中国の工場で作った、50年代テイストの割とセンスのいい家具と、東南アジアから集めたアンティークのガラス製のインテリアやライトカバー、日本の骨董屋でみつくろったちゃぶ台や、昔のお店の看板などをところ狭しと配置し、なんと何シーズンか前のパチンコ台(使用可能)まで売り物にしていました。そして、デザインやアート関連の洋書やら日本からの書籍、雑誌(こりらは新品)がそれらの家具にディスプレイしてあるという、かなり独特の雰囲気を持つ店、そりが曼陀羅でした。
「アートやらデザインだら、商売になんねーべし。あほじゃねーの?」
という風潮が今より500倍ぐらい強い香港ではありましたが、当時そいう場所はほかになし、で、香港中の広告関係のクリエイターや、映画関係の人々(ウォン・カーウァイおじさんも常連さんの一人でしたに)、アーティストたちなんかがわらわらと集まり、情報交換をして(たま〜に本や家具を買って)いく、みんなの溜まり場的なところだした。
わたくしのばあい、ある日ふらりと入ったこの店が気に入ってしまい、何度か通ううちに、奴、エドモンド・ホーと友人になり、一緒にご飯を食べたりマカオに行ったり。そうこうするうち「うちで手伝ってくれない?」ということになったのだした。
ちょうど香港で日本ブームが慢性的に定着し始めたころで、こりからわ日本のデザインやアート関係の本が、もっと受けると思うんだよね、ということで、日本の出版社でちょこっと働いたことのあるわたくしのキャリアが、ここ香港で役に立つ日がきたのか?! わたくしは、ここ香港で大輪の花を咲かせることができるというのか?? しかし、広東語能力は幼稚園児なみだ!
てなことを実わあまり深く考えもせず、花でわなく鼻の穴を開かせたわたくしは、こうしてなんとなく曼陀羅で働くことになったのだした。
はっしかし、そのように、単なる「流れ」で働くことになった曼陀羅が、実わ人を雇うような状況でわまったくなく、本の仕入れにも事欠くような借金まみれの店だったとわ。
勤務初日にすべては暴かれてしまったのでした。。。
次回は、「香港の借金取り〜そして中国人で10万人に一人と言われる商売下手な中国人ボス、エドモンド・ホーの正体とわ!?」の巻。(つづくのか??)
こんにちは。
肌寒ささえ感じる今日この頃となりやした。
(1998年某月某日。香港)
午前11時。ンじいさんのモーニングコールで、今日も曼陀羅の一日が始まりやす。
「はい、曼陀羅です」
「ホーさんいる?」
「まだきてません」
「いつくるの?」
「たぶん午後になると思います」
ガチャ。
午前11時5分。ふたたびベルが鳴ります。
「はい、曼陀羅」
「ホーさんは?」
「いない」
「いつくる?」
「午後」
ガチャ。
その後、きっかり5分ごとに電話は鳴りつづけ…
午前11時45分。
「曼陀羅だけど?」
「ホーさん…「だからきてないって。「いつ…ガチャ。
「こらー! そっちから切るな!」
「うるさい。5分おきに電話してくんなー!」
ンじいさんは、76歳(98年当時推定)。借金取りです。曼陀羅をめぐる数ある借金取りの中でも
最年長のベテランです。本当はたぶん不動産屋に雇われたただの集金係のじいさんだったのが、曼陀羅の店主、エドモンド・ホーによる長年の家賃の未払いのために、ついに借金取りになってしまったのだす。
テレフォン・ウォーミングアップで体をほぐしたあと、奴、エドモンド・ホーに会うのが待ちきれないのか、午後になる前に、そわそわと曼陀羅にやってきてしまうンじいさん。
でもンじいさんはとても小さいので、店に入ってきてもすぐには気がつきません。
「ん? いま、こびとさんが…?」と気配を感じた次の瞬間には、レジ代わりにしている紫壇の大きな机の端っこに顔を乗っけてこちらをにらんでいるので、心臓が飛び出るほどたまげます。
「わっ!出た!妖怪!」
「…ホーさんは?」
「……いない」
「ホーさんわっ?」
「見れば分かるでしょ? 来てないよ」
「いつくるんだっ?」
「知らない」
「あ゛っ??」
「知らない」
「あ゛っつ??」
「うるさ〜〜〜い!!! 知らないって言ってんだよっ!!!」
「目上の者に向かって、その口の利き方はなんだっつ!?」
「ごめんなさい」
こうした何気ない会話が日課のように繰り返されます。
ンじいさんとのやりとりがひとしきりすんだ午後1時。店主のエドモンド・ホー、髪からシャワーの水を滴らせて登場です。
「ハーイ、taka。元気?」
「全然。ンさんから電話が30回あった。その間に3回店にきた。家賃払えとどなられた」
「ふーん。 ……そうだtakaおまえ、腹減った?昼飯まだだろう? オレが買ってきてやるゼ」
そして近くの茶餐店でホット卵サンドと香港式ミルクティーをいそいそと2人分買ってくる奴。
エドモンド・ホー。
と、どこに潜んでいたのか、ンじいさんが音もなく近づいてきます。
大抵は、そゆことにだけにはやたら勘の働くエドモンド・ホーが、ンじいさんが現れる前に
「む、便意。じゃっ!!」あとはよろしくとばかりに新聞を持ってトイレにしけこむ方が早いのですが、
たまにンじいさんの動きがよく、エドモンド・ホーのそれを上回るときがあります。
そんなときは、ンじいさんがエドモンド・ホーに向かって「真人間になれ」「もっと儲かる商売に鞍替えしたらどうだ」と説教をしたり、反対にエドモンド・ホーが「いいかげん引退して家で孫と遊んでいろ」とか「ない袖はふれないんだからしつこくすんな」と、ンじいさんを説得しようとしたりする無為な会話が繰り広げられます。
わたくしの広東語わ、この時期、ンじいさんをはじめとした、借金取りたちとの会話によって、めきめき上達したと言えるでしょう(特に脅し、すかし、言い逃れなどの分野において)。いま思えば、ただで日参してくれる家庭教師がたくさんいたようなもんですからに。
「闇夜の道には気をつけろ」
「いつまでもお天道さまが拝めると思うなよ」
など、ほんとにこんなこと言う人がいるんだ! というようなフレッシュなフレーズを聞き覚えたのもこの頃です。
ンじいさんの前では、とうとう嘘の涙を流したことさえあるわたくしです。
「そんなにガミガミ言うなんてひどい。わたしだってずっとお給料もらってないのに。
え〜んえ〜ん」
としゃくりあげる(ふりをする)わたくしを、感情を失った目でにらみつけるンじいさん。
「ちぇ、泣き落としも通用しねえか。香港くんだりまできて、あたしいったいなにやってんだろ」
生まれてはじめて自分を心の底から客観視できた瞬間です。
こう見えてシャチョーは実わ主婦もやっていたりするので、意外と忙しかったりするんだス。
朝起きて天気がよければ洗濯機を回します。お布団も干しますし、朝ごはんのおかずに納豆をかき回したり(50回以上)お味噌汁を作ったり、回覧板がくれば迅速にお隣に回さなけれバなりませんし、綿埃を掃除機で吸ったらクィックルワイパーしなけりばなりまセン。その合間にもメールが入り、宅配便やら豆腐屋さんやらがやってくる。気がつくと立ったままご飯をかっこんでいるでわありませんか。
そんな時、ああそういえばメイベルも立ってご飯食べてたなあ、と思い出すんでス。
わたくしが香港で最初に下宿していた葉(イップ)家の五女、そりがメイベルです。
イップ家のアパートは、玄関を開けるとすぐ居間兼食堂という、香港では割とスタンダードな間取りだったので、帰宅すると結構な割合で、立ってご飯をかっこむメイベルの横顔に遭遇することになります。「taka、おかえり!」口いっぱいにほうばったご飯粒を飛ばしながら早速今日あったことを話しだすメイベル。最初は、うう、メイベルは口の中のものを飲み込んでからしゃべればいいんじゃないのか、と、思ったりしましたが、すぐに慣れました。メイベル・イップ。当時(1998年ごろ)50歳、まだまだ女ざかりでした。
すでに独立した長女と、エリート大学で寮暮らしをしている長男、年の離れた末っ子ビリーの3人の母でもあったメイベルは、香港では全然珍しくない教育ママでした。当時小学校5年生のビリーの勉強をつきっきりで見ては「ビリーはいい子だ、頭がいいね」と、自分の息子を誉め殺しです。ときたまビリーの宿題を手伝うこともあったのですが、そのときも「ビリーはいい子だ、できる子だ」と言うよう強制されました。宿題が済むとメイベルは「教育を受けた人は顔つきが違うんだから。絶対だよ。見れば分かる。うん、takaはちゃんと教育を受けた顔をしているよ」とねぎらって?くれたものです。「お父さんとお母さんに感謝するんだよ」とも。
メイベルの旦那さんは中国に工場を持っていて、香港には年に数度帰るか帰らないか、という生活でした。一度香港を鳥インフルエンザが襲い、正月だというのに鶏肉が食べられず、鶏好きの香港人およびわたくしは大いにストレスを溜め込んだ時期があります。数ヶ月ぶりで鶏が解禁されたとき、メイベルの旦那さんが鶏の丸蒸しを3、4羽抱えて帰ってきて、わたくしもご相伴にあずかりました。みんな大喜びで、やれ食えもっと食えまだまだ食えと、口からクチバシが出るほど食べてしまい、家族全員で大笑いしたことがあります。
数年後、日本に帰ったわたくしが再び香港に行き、イップ家を訪ねたとき、メイベルはわたくしの腕をとりながら、あの旦那さんが、実はもう長い間中国に若い女を囲っていたこと。自分は捨てられたことを、怒ったように話してくれました。わたくしは、出されたご飯を口に押し込んで聞いていました。
そりにしても、当時洗濯も回覧板もメールも掃除もしている気配もなかったメイベルは、どうしていつも立ってご飯を食べていたんでショウか?
彼と出会ったのは1998年。サルサ仲間の一人が、どこからか彼を拾ってきたのです。
この世からなくなってしまった国から来たという彼は、あまり表情を動かさないアフリカ人でした。コンゴ民主共和国は、内乱で1997年に今の名になるまでは、ザイールと呼ばれる国であり、彼の故郷でした。
ある日突然回りの人たちが敵になり、世界がまさに音をたててと変わったといいます。
彼のお父さんは大学教授でしたが、反政府派に殺されました。お母さんと妹は行方がわからなくなりました、多分2人とも生きてはいないでしょう。彼だけが何とか生き延びて、難民として香港に辿りついたのでした……
そうした彼の事情は、彼を連れてきた仲間が、本人に代わってわたしたちに教えてくれてわかったことです。フランス語しか話せない彼とのやりとりは時間がかかりましたが、それより難儀だったのは、表情が乏しく、何を考えているかさっぱり分からなかったことです。
でもサルサを踊るときの彼は、妙になまめかしく、夜の闇に紛れてうごめく別の生き物のようでした。何度か会ってわかったことは、彼が異常に「女好き」だということ。サルサバーに毎夜のように現れては、やたら女性に声をかけまくり、おごってもらう彼の姿が噂になったこともあります。当時、彼は30をとうに超えていたはずですが、ばりばりフランス語訛りのカタコト英語で必死に女性(とくにヨーロッパ系が好み)の尻を追いかける姿は、ゲームに夢中の子供のようでもあり、その姿と「難民」というイメージがどうも一致せず、不思議な気持ちがしたものです。
その後街で会った彼の手には携帯電話がありました。仲間の一人は、彼から昼となく夜となく電話でくどかれるので、うんざりだと嘆いていました。そしてサルサバーで新しい女性と一緒に現れるたびに、彼の英語もめきめき上達します。
英語で冗談も交すほどになり、彼が声を上げて笑う姿にも違和感を感じなくなったころ、仲間のサルサ熱も冷め、わたしもサルサバーから足が遠のきました。
彼がかなり年上の中国人の金持ち女性と結婚したという噂を聞いたのは、その数ヶ月後です。